近況 ずっと暗い

 

見栄を張って生きているような気がする。

 

「(仕事にせよ趣味にせよ)がんばっている」と「お金がない」を言う勇気がない。特に「お金がない」に関しては、誘われないとか印象がつくとかしてたのしいことを逃す気がしてしまう。

でも実際お金がたくさんあるわけではない。使う場所をすごく選ぶし、選べないと次の給料日まで心がせかせかする。

美味しいご飯を食べられたとなれば快く払って帰れるが、安い味のお酒しか出てこない居酒屋に三千円払うときはしぶりたくなる。

ご飯はできれば家で食べたい、自炊でいいし、テイクアウトできるならテイクアウトしたい。飲み会も月に一回くらいなので、どうせなら五千円で美味しいものを食べたい。それくらいおいしくない店に三千円出したくない。摂食時にあったまずいもので太りたくない、の延長ではないかと思う。

 

作り手が「がんばって作った」とか言ってると「当たり前だろ」と思ってしまうけど、がんばって作っているのはほんとうだしそこの自我を規制してしまうのどうしてなんだろう。

夏の終わりからまた本の動きをしている。事実「がんばって」いると思う。でも、前回だってそうだが、そのことをなるべく外に出さないように気をつけている。わたしの努力と他人は関係ないからだ。仕事もそう。SNS上の人には関係ないから「つかれた」と書けない。労ってほしい気持ちは顔の見える人の間で消化し合うべきだと思っている。

でも、全部上手にかわいく出せる人は人気がある。もしくは「がんばってる」「疲れた褒めて」と言ってもそれを上回るくらいの愛嬌や才能がある場合、なのかもしれない。最近思う。

「ほんとうはそうしたいのに」を押さえつけているから、素直につかれたと言えるそれだけのことをどこかで恨んでいるから、ずっと不自然でブレている。ブレることが不快感や不信感を与えることは理解してきたつもりだったけど、全然できていなかった。

「労ってほしい気持ちは顔の見える人の間で消化し合うべきだと思っている」ことは本当だ。だから言わないのは素直だ。でもほんとうは「がんばった!」と言いたかったし「がんばったね」と言われたかった。そういう愛嬌が欲しかったのかもしれない。「がんばった!」と言って何の反応がないのが怖いだけなのかもしれない。

 

本を読んだ。中国で商人として生きているアフリカ系に密着したエッセイだった。その中で彼らは「誰のことも信用しない」と言いながら、コミュニティを作り助け合っていた。各々騙し騙された経験があるにも関わらず、美味しい仕事でも必要になれば同業者であっても助けを呼び(結果的に横取りされることになっても、だ)、その時仕事で落ち込んでいる人がいれば食べさせてやり、母国に帰るといえば電車代をカンパした。

生きていく術として同胞で固まる、ということだけではなく、特に商売において「誰のことも信用しない」のがベースだから、だからこそそれでも関わって信じてくれているこの人は「俺のことが好きに決まっている」いう話だった。彼らは商人だから商売=人生であり、つまりこれは「人生において」ということ。

好かれているんだろうか、嫌われていないだろうか、とまた気にして生きていて、合わせられるから合わせすぎてじぶんを見失っていた。叱られたり気を使ったりする日々の中で、関西に出てきた頃にはあった自信もほとんどなくなって、すこし否定されることでも大きく傷ついてしまったりした。いまも、まだそこにいる。

友達に会う時は元気でいたくて、でもひとりだと元気でいられない。負のループ。「人の話を聞くのが好きだ、いくらでも聞けることが長所だ」と思っていたのに、「じぶんの話を聞いてほしい、人のことどうでもいい」と思うことも増えた。

 

合わせられるから合わせすぎる、に尽きる。

あと深刻な問題で、同世代の同性の気軽に誘える人が異様にすくないがある。東京や地元にはそれでも数人いるけれど、関西にはゼロと言っても過言ではない。

女性といる時は考えすぎてしまう。「手加減した会話」は誰に対しても苦手だし、わたしが薄っぺらいことも解られているような気がする。だから気取ってしまうしかっこつけてしまう。こんなことを言ってはほんとうに怒られてしまうとは思うが、男性は女性より気が抜ける。緩さがバレても評価が下がらないことが多い。ここ最近は既婚者や恋人のいる男性とばかり仲がいい。そういう人とも一対一では行かないが、大人数で飲みにいくのも大抵そういう人たちだ。最初の役割がわかりやすい。若い趣味の合う女性であること。そこで一個気が抜けるから、素のじぶんを出せてそこが受け入れられれば仲良くなれる。飲みにいく人たち側からすれば決してわたしが若い女性だから飲んでいるわけではないのはわかる。(それは女性に対してもわかるのだが)ただ、常に相手の女性の方に不安を抱かせるという問題も発生している。男女の友情はあると確信している、でも男女の友情は所詮男女の友情で優先順位は劣るものだと感じる。

いまはこれでいいとして、今後どうなっていくんだろうと不安になる。そしてやっぱりわたしは「わたしはここにいていいのだろうか」ということを気にしている。女性にとって「今日モニカさんといれてよかった」と感じさせることはものすごくむずかしい。

でも、実際はそんな「いれてよかった」なんて思われなくていいはずだ。ただお酒を飲んで帰ってくればいい。それだけのことがむしろできない。

 

友人が今年に入って六組くらい結婚した。最近の人は結婚が早い、ちゃんと人生が見えている。二十五を過ぎて人生の答え合わせが始まっていると感じる。家庭を持ちたい側だから、現状に暗い気持ちになる。

結婚した人に対して、遊んでもらえなくなったらもあるし、純粋に結婚できることへの嫉妬もある。後者はないフリをしている。どうしてかっこつけちゃうんだろう、表面に出してもいいことがないからか。その人ががんばって手に入れたのだから、わたしはその間ぼーっとしていただけなのにがんばって手に入れた人の手に入れたものを羨ましがるのは都合がいい。

家庭を持たない人生の充実も思いつかない。最近寂しいが大きくなると他のことが手につかなくなる。その時間に本をとか文章をとかができなくて、布団に寝転がってひたすらYouTubeやU-Nextを見てしまう。父が亡くなってから家族は頼る人たちではなくなった。相談できる大人がいない。

 

文章がおもしろくなくなっている気がして怖い。もうおもしろい文章は書けない気がして怖い。紀行を書きたいとずっと思っているし、来年はやる。なんでもいいから、日記じゃない文章を定期的に書いていきたい。

 

こういうことを、普段のnoteには書けなかった。もう本という守るものがあるし、苦手なりにイメージは大事だ。オープンアカウントもできるだけネガティブなことはつぶやかないで「この人の本に興味がある」と思ってもらえるようにと考えてSNSをやってしまっている気がする。

ここに書けてよかった。